ラッコリンの小部屋
うつ病性障害 投稿日:2020.08.5

精神疾患の病状や歴史を映画を通して解説し、中村Dr.が治療法を検討します。

(1)

症例 グスタフ・フォン・アッシェンバッハ(年齢不詳 男性 職業作曲家)

診断:うつ病障害

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映画 『ベニスに死す』ルキノ・ヴィスコンティ監督(1971年製作 イタリア・フランス合作映画)

主演:ダーク・ボガード(アッシェンバッハ役)、ビョルン・アンドルセン(タージオ役)

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 病歴 初老の作曲家のグスタフ・フォン・アッシェンバッハ教授は、生真面目・潔癖・誠実ですが“凡人”と評される人物です。最新作の交響曲が酷評され、愛嬢を失ってから妻との確執が強くなり、さらに持病の心臓病が悪化するなど、失意のどん底でうつ病となり、病気静養のためベニスにやってきました。ベニスのグランドホテル・デ・バンに投宿し、そこで美少年のタージオ・モールズに出会います。タージオの輝く若さと美しさに魅了されるにつれ、彼の家族に接近して、声をかける機会を待ち続けます。しかし、おのれの老醜をさらすことに恥じらいを覚え、理髪店の主人に勧められるままに若作りの化粧を施した顔が道化師のようで、哀れを誘います。

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 背景 古代ギリシャ時代では、“メランコリー(黒胆汁症)”と呼ばれていましたが、当時の体液説に基づく病名でした。その後、“マニー(躁病)”とメタンコリーが循環する精神病という理解から発展して“躁うつ病”と呼ばれるようになりました。うつ病が必ずしも躁病を伴うわけでなく、うつ病のみの経過を示す人が多く、うつ病単独の病像が注目されるようになりました。さらにうつ病の起こる背景要因によって、内因性、外因(身体因)性、心因性、性格因性など分類が行われています。現在ではうつ病性障害としてまとめられています。ちなみに、アッシェンバッハ教授は几帳面で完ぺき主義傾向のあるメランコリー型性格(性格因性)をもち、自作品の酷評や愛嬢の喪失など(心因性)と心臓病の持病(身体因性)を契機に発症したうつ病と思われます。うつ病では、なんらかのきっかけ(誘因といいます)で発病することが多いといわれます。誘因には対処のできるものもできないものもあります。対処できる誘因であれば、その誘因を取り除くことはうつ病の改善に役立つでしょう。しかし、対処できない誘因が問題となります。アッシェンバッハ教授の誘因は、自作交響曲への酷評、娘の死、妻との確執、心臓病、そして老いです。若さの持つ健康な美しさに対する憧憬は、老いに対する嫌厭の裏返しでしょう。エッシェンバッハ教授の誘因は簡単に対処できるものはありません。自作交響曲の酷評では、例えば、酷評をバネに作品の修正や新作の創作につながればよいのですが、これには相当なエネルギーを必要とします。新たなエネルギーを生み出すためにベニスへの転地療養を試みているのでしょう。しかし、ベニスでは、ターシャとの邂逅が老醜という新たな苦悩を深めることになりました。娘の死は変えることのできない現実です。対処としてはその現実を受け入れる自分を作り上げなくてはなりません。その自分がどのような自分なのかは誰も知りません。日々の生活を充足させる努力の中で形作られるからです。妻との不仲は、対処できる可能性がありますが、妻の理解と寛容さが必要になります。老いは止めることができません。自分を妙な若作りしたとしても老いを止めることはできません。老いた自分をあるがままに受け止め、失われたものを追い求めるのではなく、老いて得られたものを高める努力が必要です。心臓病、完治できる治療法があればよいのですが。身体疾患の中で、その人の人間性や生命を危うくする可能性のある疾患、例えば脳や心肺の疾患では、自己存在の危機からうつ病になりやすいといわれます。

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 症状 うつ状態には、日常的なものと非日常的、すなわち何らかの治療を必要とするものがあります。私たちの日常では、多少とも元気な日もあれば、気の乗らない日もあります。このような小さな波に揺られながら、日々の活力を得ているのです。日々好天ということがあれば幸せなことです。しかし、この日常も時に、ライフ・イベント(生活の出来事)でかき乱されることもあります。入学、卒業、就職、結婚、出産、等々多くの人が通過するイベントもありますし、その人の人生であるがゆえに出会うイベントもあります。この時、気持ちが大きく揺れ、仕事や日常生活がうまくこなせないほどに落ち込むこともあります。この落ち込みが数日から1週間程度で乗り越え、日常に戻れるならば問題ではありません。しかし、1週間、1週間と自分の役割を果たせないようであれば、一度、専門医を尋ねてみるべきでしょう。

 うつ状態でみられる主な症状は、気分、気力、考え、身体などに現れます。気分は落込み、悲しく、イライラしています。気力は低下して、億劫で作業を始めても思うように進まず、疲れやすくなります。考えでは、自分を否定するような考えが中心で、自信が持てず、生きて着る価値すらないようにまで考え、「死んだほうがまし」と考えて自死を思いめぐらすこともあります。身体では、睡眠や食欲に変化が現れることが多く、不眠や不食が一般です。このため体重減少を認めます。不眠は寝つきの悪さ(入眠困難)や夜中に目が覚める(中途覚醒)こともありますが、うつ状態の典型的不眠では朝方早く目覚める(早朝覚醒)ことがみられます。一方、不眠と不食ではなく、過眠と過食を示す人もいます。

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 治療1 古き時代から肺結核を始め転地療養を勧める人も多いのですが、うつ病ではアッシェンバッハ教授のように、むしろ新たな環境に適応するために心的負担を増すことになり、転地療養はあまり勧められません。誘因の多いうつ病は、そうではないうつ病に比べて回復しやすいといわれることもありますが、誘因の内容によっては長い苦悩の下におかれ、従って抑うつ状態も長引くことも少なくありません。その場合、考えるべきは誘因の受けとめ方です。解消しようにもできない誘因に対し、「このことがなければ」と考え込むことはいたずらに抑うつ状態を長引かせることになります。誘因となる出来事を日常生活の中の出来事として受け止め、否定もせず過大視もせず、出来事がもたらす悩みを客観的にみて、どのように向き合えば少しでも悩みが少なくて済むのか試行錯誤してみることです。

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 治療2 うつ病の人に認知行動療法を行い、良い効果が得られています。認知行動療法の効果は、抗うつ薬を併用する方が高いとされています。認知行動療法のみで治療を行う場合には、うつ状態が重くなく、回復までの時間的余裕があることが望ましいと思われます。うつ状態では、自分自身について、自分を取り囲む世界や自分の経験について、そして自分の将来について、否定的な考えを持ちやすくなります。例えば、「自分はとりえのない無価値な人間」と思い込んでしまいます。また、世界や経験に対して「この世界には価値のあるものは何もない」とか、「私の人生で何一つうまくいったためしがない」とかです。さらに、未来に対して「お先真っ暗だ」と考えることです。このような否定的な考え方が、誤った判断をもたらすことになります。例えば、「自分の人生は無駄だった」(恣意的または独断的推論)、「自分には何のとりえもない」(選択的抽出)、「自分の失敗はもはや取り返しのつかないものだ」(過大視)、「私の能力などは取るに足らないものだ」(微小視)、「奇跡でも起こらなければ事態が良くなるはずがない」(二分法的思考)などの否定的な方向に捻じ曲げられた考え方が起こってきます。このような考えの歪を修正し、適切な考え方ができることを目指します。

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 治療3 うつ病の薬物療法には、抗うつ薬が使われます。抗うつ薬はうつ状態だけでなく、不安状態も改善することができます。そのため、最近ではうつ状態だけでなく、強迫性障害、パニック障害、社交不安症などでも、第一選択薬になっています。抗うつ薬の特徴には、①効果のあらわれるのに2~3週間が必要なこと、②眠気や吐き気などの軽い機能的な副作用は2~3割程度の人にみられ、1~2週間のうちに軽快すること、③プラセボ(偽薬)でも抗うつ薬と同様の副作用がみられること、④連用しても薬理的な依存はおこりにくいが、急な中止で反跳的な不安抑うつ症状が数日みられることがあること、⑤他の薬物同様に心理的な依存から習慣性を認めること、などです。①のため服用開始後2週間程度の「待ちの期間」があります。しかも②のため、副作用のある方であれば、抗うつ薬の効果はなく副作用があると思い、服薬を中断する方もいます。ですから①と②のことを理解して「待ちの期間」を乗り越えてください。服薬をして副作用が重いとか長引く場合には、薬理的な副作用も配慮する必要がありますが、③によることもあります。しかし服薬をしておられる方には②か③か、というは区別できませんので、薬が自分に合っていないと判断しがちになります。このため抗うつ薬の副作用とプラセボ効果について十分に理解してから服用されることを勧めます。長く服用していると、効果をもたらしてくれた薬では、やめると調子が悪くなるのではと不安になり、やめることが難しくなります。習慣性を避けるため、症状改善時に主治医と相談して週1日休薬日をもうけるか、環境変化のない時期に減薬から終薬することもできるかもしれません。抗うつ薬の特性を理解して正しく服用することで7割以上の方が、うつ状態を改善できます。抗うつ薬は対症的な治療薬です。不安抑うつ状態を改善できても、その原因となった悩みを解消するわけではありません。従って、うつ病を克服するための道具としてうまく使うことが大切です。うつ病という敵に闘う戦士に与えられた盾や槍が抗うつ薬ですが、うつ病と戦うのは鉾や楯ではなく戦士の力です。


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